A様の茶会にてあげた「重遠さんのネームプレートが現・遊就館に」との
話題。
初代をあの男が施工したから、ってとこまでは覚えてたのですが
じゃぁその後初代の建物はどこに・・・?って帰結を調べたので覚え書き。
・・・はい、あのやっぱり大正の震災で
倒壊しとりました(泣)
『耐震設計』って本を開いて珍しくギリギリ悔しそうな重遠大佐の姿が
目に浮かびます。
■そもそもの施工開始はM14年5月。
設計はイタリアのカペレッティ氏
施工責任者が工兵第一方面提理・中村重遠大佐。
命名は荀子の勧学篇に「君子居必千擇郷、
遊必就士」
(=君子は居るに必ず郷を擇び、遊ぶに必ず士に就く)
該当訳:君子たるもの遊歴する時は必ず優れたる人物に交わり学ぶこと。
ま、交わり・・・(ソコに反応せんでよし)
煉瓦造で大理石も多用した、そらー豪華で印象的なものだったそうで
鹿鳴館より開化的、ニコライ堂と並ぶクオリティの高さで当時話題の建築ブツとのこと。
当時よりこの遊就館一帯は、勧業博覧場に休日の遊戯と、市民の憩いや産業の振興を
目的とした場所にと政府も考えていたようで、だからこそのビューチーな欧風建物を
ババーンと建てたんすね。無論中は今と同じく兵器等の展示もあったのですが。
■完成はM15年。重遠さん亡くなる2年前・・・
名城保護への建白はM10年or11年くらいの西南直後だったと記憶しとりますで
まず和の美に、そして西洋の悦楽に身を震わせたわけですのぅ
(どうしてそげな変態表現にするの)
再建された遊就館とその近辺が当初の狙いからは随分離れた様相でおさまったこと
が、明治初期の陸軍とその後の日本という国の歩んだ道のりとに重なります。
それを知ったあの眠い顔の工兵大佐なら、どんなことを考えたりするかも少し聞いて
みたくはあります。
・・・何か無駄なこと色々クドクド言って、挙句結論はクチに出さなげ(笑)
まぁそんなもんでしょう。
しかし現在の状態になるのが2002年!随分最近なんだわね!

これが当時のお姿だそう。
絶対煉瓦一個一個に名前つけてるって!
PR