すべて要確認事項には(?)つき
★京都での閣下の大久保卿への直談判及び正面軍の九州でのこう着状態から来る
現地にての別動隊必要の気運↑により、山田閣下出動。
3月19日「兵庫丸」にて出立(大阪?)の山田閣下。
名古屋鎮台(?)の半個大隊を率いる。
少なっ!
追って別働旅団司令官拝命。馬関に一時降船。
中村重遠中佐、広島鎮台の2個中隊(重遠中佐は当時鎮台参謀長)率いて
山田閣下を待ち受け。
出たー!つか許可は取ってたのか!?無かったら脱走だぞ!?
(当時の広島鎮台司令官は三浦梧郎)
でも3月14日で広島鎮台参謀長は解役になっているので閣下からの事前打診・・許可はやっぱり
あったのでしょう。
それはそれで萌えるが。
合流の許可を閣下がガタ(参軍・中将)に出し即日受理。そんなに重遠中佐が欲しかったか
閣下・・(
そこは永遠の謎・そしてこの行動はもしや最大の痛恨?)
兵庫丸乗船→長崎へ。
黒田・川路・高島(鞆)らと合流。別働隊組織さる。この時正面軍は山鹿での戦い
及び負傷者続出でちと大変。梅沢さんもここで負傷しとったわそういえば。
当初は 閣下は別働第三の名称で旅団率いる((が、戦記では便宜上別2で通してある)
つかこのメンツで閣下が一旅団の司令官なだけってのはやっぱりおかしい気がするが、
軍事畑から事実上身を引いていたのを短気でブチ切れ(ご子孫:談)出動したので自然?
重遠中佐が参謀長。この時中村尚武中佐は別4(川路隊?)の参謀である。
目加田や八木もこの時から居るので意外と古株。
両名とも(※間違い。
八木は山地の麾下
)目加田はのちに山川の麾下。
八代への上陸では、便利の通る小舟を得る為、先に会計係の兵を遣わし
地元民から買い上げて上陸を果たすエピ有り。
長崎との往復を挟んでついに26日上陸。宮ノ原(おそらく宮原・現・氷川町・火の川エピは
ネタに使えるぞ!)に向けついに山田閣下が
第一発めをブチ、かます。
さて、この時山田閣下と上陸したのが、あの!!・・・
引っ張ってすみませぬ。(6/25)
山田閣下と八代に上陸したは、かの名高きアームストロング砲2門!
某様から『別2の輜重費は半端無い』と伺っておりましたが、2門を専属で
持ってたんかやはり? つーのもこの上陸以降4月の連絡成功寸前まで
他の別働旅団は正式に砲門・砲兵隊を持っていないのです。
現在ではその威力を疑問視する声も上がっているアームストロング砲ですが
この時代この時点では間違いなく国内でもトップクラスの砲でして。
その他、陸続と 8サンチ・12サンチクルップ砲・ミトライユースにガトリング砲
おまけにロケット砲(現在の焼夷弾に近いもの)も備えており、人吉攻略寸前に
山地がぶっ放しているのもコレでございます。
一応参軍の黒田が権限で上記集めたと記述がありますが、4月14日までに
その新式重火器のほとんどが山田閣下の旅団に属しているあたり、誰が要請し
他旅団への配備も指示していったかはほぼ明白でしょう(笑)
率いるは一旅団のみ、しかして揮える力は参軍以上とは!
あーもー最高です閣下、踏んでください閣下。(やはりソコか)
以上、華々しく上陸された3月後半の別2でした。
あ、重遠さんはこの時お留守番で実戦には参加していませぬ。
輜重の点検にあたらせているあたり、山田閣下既にこの時何かを
感じていたのでせうか・・・(笑)
※砲門等に関する記述は戦記意外の別資料(田原坂・西南戦争記念会誌?)より
占領のち、以後八代が衝背軍の本拠地に。(当時は「衝背軍」との呼称は無い)
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